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本書(橋本伸也『記憶の政治』岩波書店、2016年、201+33頁)は、バルト三国を対象とする国内外の課題、すなわち安全保障、EU加盟問題、そして残留ロシア人を含む国内の教育・言語・国籍等の問題と絡まって、歴史がいかに政治化され紛争の焦点となっているのかを中心にして、その歴史的背景、ソ連解体からEU加盟までの政治過程、EU加盟後の悪化するロシアとの関係、及びEU内部へのバルトに由来する歴史記憶の展開過程との関係を追ったものである。
本書の効用は、東アジアの歴史認識問題が語られる際に、単純化され模範として理想化されるヨーロッパの歴史・記憶関連政策についての単純なイメージを打破してくれる点である。バルト諸国を発信源とする歴史記憶がEUとロシアとの関係に修復が難しい亀裂を入れたプロセスや、それに到る紛争化状況での論争が外部の視点からわかりやすくまとめられている。歴史が政治化した状況では、そもそも歴史修正主義とは何を指すのかという問題自体が紛争の焦点となるが、さらに「人権」や「ファシズム打倒」というような様々な「正義」がいかに構造的に組み込まれて展開されるのかについても、著者自体が比較を意識することで深く考察されており、東アジアの地域専門家のみならず、オーラルヒストリー研究者や歴史社会学関係者一般にも、深い示唆を与えるものとなっている。
評者は日本政治外交史と東アジア国際関係史を専門にするが、それにもかかわらず、この書評者としての指名を受けた。その一因は、世界スラブ学会が、2010年にスウェーデンで開催された際に、エストニアの首都タリンを実際に訪れた体験があるためであろう。タリン郊外のロシア人墓地にロシア研究の友人である左近幸村氏と足を運んで「戦勝記念」関係のモニュメントを見に行ったが、その際にロシア人のみすぼらしい老人と出くわし、左近氏の通訳によって、エストニア独立後に苦しくなったロシア人住民の境遇について直接に伺ったことがあった。その際のロシア人の老人が醸し出していたわびしさや怒りは、夏の高い太陽の陽射しとともに、そしてエストニアの歴史博物館で出会った別なエストニア人で英語のできる老人がロシアへ向けた怒りの言葉と響き合って、私の記憶に強く焼きついて来た。この本を読んで、その怒りの由来する個人としての体験に思いをはせつつ、歴史や記憶が激しい政治的争点として現代世界に浮上している現象に対して、理論的な視角に基づき、バルトと東アジアの比較の視点からそれを考察できるようになったことは、誠にありがたいことであった。
最初に本書の概要を示したい。プロローグにおいて、2007年4月にエストニアで発生した第二次大戦で活躍したロシア兵士像の撤去をめぐる民衆騒乱が紹介される。東欧革命と民主化の延長線上に、激しい政治的対立が歴史解釈と記憶をめぐって惹起され、歴史と記憶が政治化され紛争化していること(P18)、それが日本社会にとって「好適な対照軸」をもたらす現象であることが問題提起される。
その上で、基本的に時系列に即して、本論は展開される。第一章が異なる歴史解釈が生じている歴史的な背景、第二章がソ連邦からの独立からEU加盟までのロシア語系住民の国籍・市民権、教育、言語をめぐる国内葛藤と国際的なインプリケーション、第三章がEU加盟後のナショナリズムの噴出状況に対する構造的な分析、第四章がそれを示すシンボリックな事件の実証分析という形である。
第一章「歴史に埋め込まれた紛争」においては、歴史的記憶の断裂がどのような歴史的事象とその解釈の違いに由来しているのか、つまりは歴史解釈や記憶が政治化して社会的紛争のるつぼと化していく「地雷」(P19)が、どのような歴史的現象の下に埋められているのかが論じられる。
「地雷」として歴史解釈が大きく分かれる最大の事件は、1939年8月23日のモロトフ・リッペントロップ協定=独ソ不可侵条約の締結である。スターリニズムとナチズムを全体主義として一括して、その占領下の「英雄」的抵抗を強調する民族主義的歴史観と、それをナチズムからの攻撃を遅らせるための已むを得ざるものとするロシア側の歴史観の対立が示される(第二章以下では、その対立が国内外の現実の問題と絡まって、大いに政治問題化する構造の分析へとつなげられていく)。
第二の地雷は、バルト諸国の独立をロシアが認めた条約の解釈である。そもそもバルト三国の独立のきっかけは、ブレスト・リトフスク条約で西部地域がドイツへ割譲されたことであったが、赤軍が再び侵攻してくるまでの間に民族的な英雄による独立宣言が行われるとともに、反革命戦争の過程で侵攻した英国やフィンランド義勇兵の助けを借りながら、ボルシェビッキ政権の樹立を構想するグループと戦いつつ、またドイツの庇護のもとで異る国家形成を試みるグループとも入り乱れながら(P34−35)、1920年2月にエストニアが最初に労農ロシア政府とタルト条約を締結して独立した。これを皮切りに7月にはリトアニア、翌月にはラトヴィアに対して、ロシアは独立を承認したが、一方で連合国の方は民族自決原則を標榜していたにもかかわらず、独立承認を遅らせた。それでもロシアのメドヴェージェフ政権の下では、この分離独立に対して「ロシア帝国からの分離には正統性はなく内戦と革命の結果としての一時的領土喪失に過ぎない」という評価を下している有力歴史家も存在しており、それがエストニア国境がいまだに確定していない問題や、1939年の協定の意味にも影響しているという。
第二章「排除か、統合か、同化か」は、1985年にゴルバチョフが登場してから、バルト諸国からの強制追放者がシベリアから帰還して、国外の団体との連携の中に民主化運動が展開される過程と、その後のロシア系住民をめぐる処遇問題が柱となる。
ソ連が解体したのち、バルト諸国は独立したが、ロシア系住民を完全に追放することは、民主化後のEU加盟のためには不可能であった。民主化過程では、独ソ不可侵条約締結日の8月23日が「人間の鎖」運動の日になったり、独立を第一次大戦後に認めたタルト条約の有効性の確認が議論されたり等、民主化と歴史的な記憶の結合過程が早期から存在していたことが論じられる。「過去の見直しがそのまま現実の政治闘争の中核」となったのである。
また、EU加盟問題やロシアの圧力のなかで、ロシア語話者住民の市民権と国籍・教育・言語を巡って国内は緊張した。ラトヴィアでは、ロシア人比率が高いために民族にかかわりなく多文化主義的な国民形成の理念のもとに国籍付与が行われたが、エストニアではロシア系住民を巧妙に排除する国籍法が、結局はEUも認めざるを得ない形で実施された。その際の論拠となったのが「タリン条約による独立が有効であったにもかかわらず、独ソ不可侵条約で不当な占領が開始されソ連解体までそれが続き、解体によって独立が『回復』された」という歴史枠組みである。この前提の上に、1940年までにエストニアに居住した国籍者であれば、たとえロシア語話者でも国籍は認められるのに対して、不当な「占領」時代に流入したそれには認められないという論理が生み出され、それが多文化主義のもとで多元的な統合を求めるEUに対してエストニアの実質的に多数のロシア人を排除する国籍法を正統化する説明に使われた(P69)。
つまり、ソ連邦解体後の独立は、「回復」されたのか、新たに実現されたのかという歴史解釈が、住民の国籍に大きな変化をもたらしたのである。更に、この国籍政策は社会主義からの再私有化過程からロシア系住民を排除する意図とも絡まった可能性があることや(P79)、ロシア系住民にもロシア国籍を留保したい動機が存在したこと(P81)も指摘されている。最後の私の感想と絡む興味深い点である。
第三章「『記憶の戦争』–歴史と記憶をめぐる政治と紛争」では、2004年5月にエストニアとラトヴィアがEU加盟を承認されて以後、ロシア系住民問題が現地政府の自由により多く委ねられるにつれ、歴史が政治化してナショナルな感情が表出する現象の展開過程が取り上げられる。タリンでは2007年4月に「ブロンズの夜」事件(第二次大戦末期、ドイツに占領されたエストニアをソ連が再占領・解放(全く異なる対照的呼び名を連記したー評者)した際の亡くなった赤軍兵士追悼顕彰像撤去を巡る大規模な大衆騒乱事件・死者1名負傷者150名)が起こり、拡大ヨーロッパ内部の安全保障理解の違いが露呈すると同時に対ロシア関係が緊張した(P 102)。平和的な民主化革命によって独立したエストニアで歴史問題を巡って流血が起きた背景として、異なる4つの歴史像が紹介されている。
第一と第四は、第二次大戦中のファシズム対民主主義の戦いとして第二次大戦を意味付けた連合国のプロパガンダに由来するもので1945年を大きな節目と考える点で共通である。第一はレジスタンスという住民視点の記憶で補強された自由と民主を重んじる西欧の記憶であり、第四は「大祖国戦争」史観と呼ばれる反ファシズム戦争中でのソ連の英雄的戦いを強調し、明確にスターリニズムとファシズムを区別するものである。
これに対して、第二・第三の歴史観は中欧型とみなせるもので、歴史の切れ目を1939年の独ソ不可侵条約以後の全体主義による占領開始に置く点は共通である(第二の歴史観は本来ユダヤ人中心で1945年も切れ目)。しかし、前者が人権規範を強調するのに対して、後者は国民的アイデンティティを強調するという点で、歴史観が異なる(と評者は理解した、P103)。つまり、第二はユダヤ人の虐殺に象徴される人権蹂躙を基軸として、それを大戦後のソ連東欧による自由の抑圧や住民の強制追放にも拡大して人権という規範を強調する歴史観であり、第三は同じ問題をネーションの苦難として受け止め、スターリニズムとファシズムを同一視しながら対ソ対ナチ協力を問題化する歴史観ということができる。
主に、第三の歴史認識が推進力となり、第四のそれとの激しい摩擦を経ながら、独立以後のソ連体制内の協力者や、その体制下に封印されていた犯罪者への断罪が行われたが、それに焦点を当てたのが第四章であり、それは断罪のケース・スタディーともいうべきものである。
ヴァシリー・コーノノフという、ナチス占領下のラトヴィアでパルチザン活動をしながら、ナチス協力者の文民を殺害した人物に対する戦争犯罪裁判を取り上げ、紛争のきっかけ、展開過程、その帰結が述べられる。それは歴史現象の地雷がどのように作動し爆発するのかを、コーノノフ事件に即して論じたものといえる。コーノノフのおこなった行為は、反ファシズム戦争中の戦争行為なのか、それとも殺人であったのかをめぐり裁判は展開した。実質的な争点は、コーノノフが殺害に関与した協力者がシビリアン・文民か軍人かという点と、そもそもコーノノフの側に攻撃の資格があったかどうかにあった。最終的にラトヴィアの国内裁判でも国際裁判でもコーノノフは有罪判決を下され戦争犯罪人となったが、ロシアはコーノノフを支持していたため、この結果に強く反発し、むしろ「パルチザンの英雄」として称賛する動きを加速させていった。
以下、感想とコメントをまとめたい。最初に申し添えたいことは、東アジアにおける日本帝国からの脱植民地化と、バルト諸国のソ連邦からのバルト独立とを比較すると、旧宗主国住民の強制追放が徹底的に行われた前者とそれがEU加盟への圧力や人権規範に直面する中で行われなかった後者との対比が鮮やかであった点である。後者においては歴史が動員されることにより住民間に新たな壁が構築され、それが脱社会主義化に伴う再私有化と絡むことで住民のナショナリズムが加速させられた一方、EU加盟のためには人権規範を守り多元的社会を構築しなければならず、そして隣国ロシアが常にロシア語系住民を保護せんとするために、バルト諸国のナショナリズムには大きな制約が課せられていた。この点は、旧宗主国としての日本が占領下で周辺への影響力を完全に失っていた東アジアと誠に対照的であった。しかし、バルト諸国の国内で起こっている現象は、実は国境を越えた歴史認識問題として、東アジアの我々が異なる位相で直面している現象と同じではないかとも感じる。
全体主義による継続的占領への抵抗を核とする現地住民のナショナリズムに親和的な歴史観(第三のそれ)と、ロシア語系住民による大祖国戦争史観(第四のそれ)が、国内で激しい対立をし、二つの異なる歴史観が相容れない「断裂した記憶が並存し競合する社会」(P 117)こそが、今のバルト諸国である。前者の歴史観から見れば、エストニアは「スターリン体制下の粛清やシベリア強制移住、スウェーデンなどへの亡命、そして長く続いたソ連体制下での悲痛な経験を生々しく胸に刻みつけ、その記憶を「占領」という語に託した人びと」(P114)の社会と形容される。それに対して後者は、多大の犠牲を払った戦勝と「解放」の結果として「ソ連各地から軍人や労働者として流入して、独立回復後も当地に留まり、無国籍の境遇に追いやられた人々」としてロシア系住民を位置付ける。どちらも歴史の犠牲者として当事者に意識される。しかし、相手の記憶には敬意を払うことができないのである。この状態こそが日韓の歴史認識の対立構造を、わかりやすく象徴的に示している。
そうした対立構造を乗り越えるための手がかりは、やはりナショナリズム研究の深化、それも国際共同研究によるそれにしか求められないのではないか、これが第二の感想である。追放・離散・弾圧などの「喪失」のイメージを中心とする被害者としての記憶を強調する被害者ナショナリズムの存在が強調(P117−120)されている点は、東アジアの歴史紛争と接点を持つが、それを深く考察するためにも、ナショナリズム研究の成果に立ち返ってネーションの起源についての分析枠組み、例えば源初的なものか手段的なものかなどを軸として深く考察し、真の意味で比較し新しい知見を導き出すことが可能となるのではなかろうか。こうした評者の期待に応えるかのように、筆者もそうした材料を豊富に提供している。
例えば、ドイツ側で戦闘に参加しソ連による再占領以後も抵抗を続けたエストニア人・ラトヴィア人兵士を「英雄的な抵抗」者とみなせるのかをめぐる、前述の第三と第四の歴史認識枠組みの衝突過程が挙げられる。そうした被占領体験や英雄的な抵抗イメージが、遠い中世の北の十字軍時代に遡って認識されている点(P27)に読者は気づかれたであろうか。エストニアという部族社会が先に存在したのか、それともロシア帝国の西の先進地帯の工業化(P29)に伴って阻害された人々が人工的に記憶を作り出したのか、改めてネーションという存在と歴史的記憶との関係が本書全体で問われている。抵抗を民族的な主体性を喚起させるものとしてイメージさせる点は、韓国の民族主義が周辺諸国からの侵略を契機とした、義兵や反乱を民族的な主体性の核としている点と極めて相関している。バルト地域において、大国のスウェーデン、デーン、ジェチポスポリタ(ポーランド・リトアニア連合王国、やがて共和制となる)、ロシア、ドイツなどが周辺から侵入して入り乱れた一二世紀以来、現代に至る戦乱をどのような基層社会が支えていたのかという問題は、イェール大の朝河貫一が二〇世紀前半に追求せんとした封建制研究の日欧比較の可能性を暗示しているようにも読める。
第二は、民主化に伴う和解の問題である。自己を剥奪されてきた人々の集団が、民主化によって集合的な主体の一員へと転換していく過程については、私自身が、大学院の修士時代にテレビの映像を通じて直接目にしてきた。1986年のフィリピン革命、87年の韓国の民主化闘争、そして89年の東欧革命と天安門事件、91年の台湾における民主化闘争(これはテレビで生中継されなかった)がそれである。民主化前では自己を奪われ「占領下」や権威主義体制下にあった人々が、思いっきり過去の抑圧と不正義を語り、社会的に問題提起していく際の興奮した姿が目に焼き付いた。それから30年が過ぎた今、東アジアのみならずバルト三国でも、歴史的な記憶をめぐる激しい葛藤が、国内外に展開している様を、この本から学ぶことができた。また、民主化プロセスは終わったわけでは決してなかったこと、今の自分は、あの若き日の国際政治上の大事件の延長線上に依然としてあって、無意識にその民主化といううねりの中で、思考を続けてきたものであることに改めて気づくことができた。
しかし、その理解の上で、ロシア住民の国籍や財産のみならずロシア国民全体に向けた和解の試みが実際にどのように展開されたのかを知りたいと思う。政治的な地雷を取り除くための知識人の対話はいかに展開されたのか。その失敗の結末としての両論併記、もしくは整合性のない宣言などの一部は本文でも言及されている。ついには、2006年の欧州評議会議員会議決議により「全体主義的共産主義体制の犯罪に対する国際的糾弾」が決議され、それによる「人権侵害」「犯罪被害者への共感、理解、承認」が決議されたことや、欧州安全保障協力機構(OSCE)でも2009年のヴィリニュス宣言が認められたことによって、ロシアとヨーロッパの間に「修復困難な亀裂」を生んだことも指摘されている(P131)。
しかし、なぜにしてロシアの国民的アイデンティティと、これらの宣言は対立してしまったのであろうか。これについては、ロシア側が2009年に「ロシアの国益を損なう歴史歪曲の試みに対抗するロシア連邦大統領委員会」を設置して、プーチンが委員長に就任し国家意思に歴史を「完全に従属」したこと、その延長に2015年から「ロシア歴史学研究会」が設立され、「国策的歴史叙述の再編」や歴史記憶を左右せんとする立法が試みられているという結果が詳しく報告されている(P135)。また、エピローグでは歴史・記憶紛争の政治化が、バルトと東アジアで共振している現象にまで視野が拡大されている(P191)。しかし、それは冷戦直後の和解へと向けた活動の失敗の結果ではないのか。ドイツとポーランドの歴史共同研究は、実際は様々な対立を抱えながらも、「美談」としてまとめられ理解される傾向があるのに対して、なぜ、美談は作られなかったのか。その理由を検証せんとしたのが、ここに紹介した本書であることは十分了解しながらも、著者の分析があまりに鮮やかなものであるがゆえに、本文で述べられた結論を引き出すまでの泥臭い、果てしのない「不毛な対話」に分け入って「過去の不正」を再審せんとしたバルト側の要求への「感情的反発」の起源についても、もっと知りたいと願うのは、贅沢であろうか。エストニアの人権という正義をまとった民族主義が、ロシア側の民族主義をかえって刺激したことは、東アジアの状況と似ているように思えてならない。「反ファシズム」というスローガンはねじれて共振(P191)しているのではないか。ともかくも、大いに勉強させていただいたこと、著者はじめ関係の皆様に改めて心から感謝申し上げたい。
浅野豊美